『今昔物語集』にみる古代の辺地修行者

2015.10.01 研究最前線

四国遍路・世界の巡礼研究センター長・法文学部教授
寺内浩

 平安時代には多くの僧や修験者が修行のため四国の海岸部や山々を巡っていた。こうした修行を辺地修行という。そして、この辺地修行が四国遍路の原型であったことは周知の通りである。四国における辺地修行の様子は、平安時代後期の説話集である『今昔物語集』(以下『今昔』とする)31-14に「今は昔、仏の道を行ひける僧三人ともなひて、四国の辺地と云ふは伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の廻りなり。(今は昔、仏道修行の僧が三人連れ立って四国の辺地、それは伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺を巡ることである。)」と記されている。『今昔』には人々の姿が生き生きと描かかれてあり、史料の少ない平安時代にあって、当時の人々の様子を具体的に知ることができる貴重な史料となっている。以下では、この『今昔』を用いて平安時代の辺地修行者と地域の人々との関わりについてみていくことにしたい。
 さて、辺地修行者は長期間にわたって四国を巡るわけであるから、修行とはいえ食料や宿はやはり必要であった。辺地修行者はこれらをどのように確保していたのであろうか。
 当時の辺地修行者はただ海辺や山を巡り歩くだけでなく、「今は昔、仏の道を修行する僧ありけり。名をば義睿といふ。もろもろの山を廻り海を渡りて、国々に行き、所々の霊験に参りて行ひけり。(今は昔、仏道修行をして歩く僧がいた。名を義睿という。多くの山々を巡り、海を渡って諸国に行き、あちらこちらの霊験所に参って修行をしていた。)」(13-1)とあるように、霊験所(霊験のある寺院や修行地)できびしい修行を行うのが一般的であった。したがって、寺院やその近くで修行をしている時は寺院から一定の援助が期待できたであろう。では、旅の途上ではどうだったであろうか。
 『今昔』をみると、旅の僧が「日暮れにければ、人の家に借り宿りぬ。(日が暮れたので、人家に宿を借りた。)」(15-29)など、人家に泊めてもらう話がいくつもみえる(15-27、15-28、15-30など)。したがって、仏道修行に理解のある家があれば、修行者は野宿を避けることができた。また、伊予国の越智氏のように仏教信仰に篤い地方豪族も少なくはなく、こうしたところでは修行者は歓待されたであろう。
 地方に隠遁した僧も修行者を助けていた。『今昔』13-4は、法隆寺の僧であった法空が故郷に帰り洞窟に籠もってひたすら法華経を読誦していたが、道に迷った修行者が偶然その洞窟を見つけ数日間世話になるという話である。当時は世俗化した大寺院を嫌って地方に隠遁する僧が多くいたのだが、修行者にとってこうした隠遁僧は頼もしい存在であった。
 修行者が人々に祈祷や供養を行うこともあった。平安時代の仏教信仰は「現世安穏」と「後生善処」、すなわち現世と来世の両方での幸せを願う二世安楽的信仰が基本である。平安時代の仏教といえば浄土信仰が強調されるが、実際には仏教に対して人々は浄土への往生とともに現世利益も大いに期待していた。地域に住む僧とともにこうした人々の要求に応えていたのが旅の修行者である。『今昔』には、盲目の流浪僧が村に招かれ法華経を読み病人を治す(13-18)、遍歴の法師が疫病退散のための供養を行う(14-44)、旅の僧が念仏講を行う(15-24)などの話がみえる。このように各地を巡る修行者は民衆の願いや求めに応えていた。もちろん、修行者はその見返りとして一定の報酬を得ていたと考えられる。
 以上、修行者の修行生活が地域の人々に支えられていた様子をみてきたが、その一方であまり歓迎されない者もいた。それが乞食僧、つまり僧の身なりはしているが実態は物乞いであり、「心経をだに知らぬ法師(般若心経すら知らない法師)」(15-15)たちである。
 『今昔』26-21に、夫が猟に出て妻が留守を守っている家に旅の修行僧が食物を求めてやってくる話がある。「一人の修行の僧来たりて、貴く経を読みて食物を乞う。僧の形、いと清げなりければ、『無下の乞食にはあらぬなめり』と思ひて、女主経を貴むで、上に呼び上げて物を供養するに、僧の云はく、『己は乞食には侍らず、仏の道を修行して所々に流浪するが、粮の絶えたれば、来たりてかく申すなり』。(一人の修行僧がやってきて、経を尊げによみ、食を乞うた。僧の様子がまことにあかぬけしていたので、『ただの下賤な乞食坊主ではあるまい』と思い、この女主は僧のよむお経を尊び、家の中に呼び上げ、食事などを供養していると、僧が、『わたしは乞食ではありません。仏道修行のため諸国を行脚しているのですが、食物が乏しくなったので、ここに来て食を乞うたのです』と言う。)」とある。この妻は修行僧を家に入れて食物を与えたのだが、それは修行僧がりっぱに経を読み、身なりもきちんとしていて、「無下の乞食」ではないと判断したからであった。つまり、「無下の乞食」、すなわち賤しい乞食僧であれば妻は拒否していたことになる。修行僧自身も「己は乞食には侍らず」とわざわざ言っており、修行僧の側も乞食僧でないことを示す必要があったことを自覚していた。したがって、この話から当時は乞食僧が多数いて、一般の人々からは好意的にみられていなかったことがわかる。
 しかし、仏教本来の教えは「乞食の中にこそ、古も今も仏菩薩の化身は在す。(乞食僧の中にこそ、昔も今も仏菩薩の化身がおいでになる。)」(20-26)であり、乞食僧の排除を決して容認してはいなかった。『今昔』には乞食僧に冷淡な態度を取ったため仏罰を受けた話がいくつもみえている(14-28、20-25、20-26など)。また、修行者の中にはあえて乞食修行を選択する者もいた。それが『今昔』15-15の「比叡山の僧長増往生の語」である。比叡山延暦寺の高僧長増は乞食修行をしながらひたすら念仏をとなえ四国を巡っていたのだが、弟子の清尋が伊予守藤原知章に伴って伊予国に下向したので、懐かしさのあまり彼に会いに行ったところ、長増が実は高僧であることがわかってしまったという話である。この話で興味深いのは、長増がぼろを着て弟子の清尋を尋ねた時、人々は乞食僧が来たと言って彼を追い返そうとしたのだが、長増の正体がわかると態度が一変して彼を敬うようになったことである。「乞食の中にこそ、古も今も仏菩薩の化身は在す」ことを理解している人々ならば乞食僧を受け入れたであろうが、一般の人々はどうしても修行者を身なりだけで判断してしまうことが多かったようである。
 平安時代の四国は、有能な修行者、「心経をだに知らぬ法師」、さらには乞食修行をする高僧までさまざまな僧や修験者が巡り歩いていた。そして地域の人々の彼らに対する態度も多種多様だったのである。
〈参考文献〉
寺内浩「古代の四国遍路」(『四国遍路と世界の巡礼』、法蔵館、2007年)
寺内浩「平安時代後期の辺地修行者と地域」(『巡礼の歴史と現在-四国遍路と世界の巡礼-』、岩田書院、2013年)
日本古典文学全集『今昔物語集』1~4(小学館、1971-1976年)