書評 大舘右喜著『幻の武州八十八霊場―埼玉の古寺をたずねて』

2021.05.31 研究最前線

胡  光 /愛媛大学法文学部教授/四国遍路・世界の巡礼研究センター長

一 本四国と新四国

 四国遍路は、四国一円に広がる弘法大師空海ゆかりの八十八箇所霊場を巡る全長一四〇〇㎞にも及ぶ壮大な円環型巡礼である。その原型は、一二〇〇年以上前に空海が行った厳しい修行に由来し、長い歴史のなかで変容と発展を遂げ、今もなお多くの人々を四国へ誘い、地域の人々もお接待で迎える、生きた四国の文化である。
 近年の研究において、四国遍路の成立過程は、平安時代に登場する僧侶などの「辺地修行」をその原型とし、その延長線上に鎌倉・室町時代の「四国辺路」を捉え、八十八ヶ所の確立とともに庶民化した「四国遍路」の成立を見る、「辺地修行」から「四国遍路」へという二段階成立説が有力である。江戸時代の高野聖真念は、貞享四年(一六八四)初めての案内記『四国辺路道指南』を刊行し、「辺路修行者」があえて選んだ険しい道とは異なる安全な道を推奨し、道標や宿も整え、「辺路」の庶民化を確立した。同書の刊行は、修行の「辺路」から巡礼の「遍路」への画期となった。案内記や霊験記の刊行が相次ぎ、元禄四年(一六九一)には歌舞伎『四国辺路』が京都で上演されており、畿内で四国遍路ブームが興っていた(1)。
 信仰が広がると、本霊場に見立てた写し霊場が各地に出現する。四国遍路より古い歴史を持つ西国三十三所巡礼では、鎌倉時代初期に現在の東京都、神奈川・埼玉・群馬・栃木・茨城・千葉県に及ぶ坂東三十三所が、室町時代までには秩父三十四所が開設され、日本百観音霊場として知られていた。四国霊場八十八箇所の写し霊場は、江戸時代中期に始まり、西国三十三所や親鸞聖人二十四拝などの写し霊場が全国展開するのも江戸時代のことである。これらの写し霊場は、数か国にわたるものから一島、一村、一山で完結するものなど多様である。
 四国霊場では、江戸時代に起源をもつ小豆島(香川県)、知多(愛知県)、篠栗(福岡県)が三大新四国霊場として知られるが、香川県内には七〇か所以上の写し霊場が存在するなどその数は膨大であって、各写し霊場はもとより総括するような研究も数少ない(2)。写し霊場は、海外にも及び(3)、本四国への憧憬や篤い信仰は本四国の発展を示すものでもあった。
 それゆえに、本書名「幻の」という文言に強く惹かれた。本書は、文化九年(一八一二)三月五日、武蔵国越生法恩寺山主が定めた「武州八十八霊場」の全札所について紹介したものである。大舘氏の指摘のとおり、天保五年(一八三四)の弘法大師千年忌に合わせ、文化~天保期には、全国的に新四国創設が相次ぐ(4)。武州の霊場は、弘化三年(一八四六)四月十五日の幕府御触書により廃止され(5)、現在は知る人もない「幻の霊場」になったとされる。これを史料に基づき、現地を丹念に歩き、幻の「武州八十八霊場」を比定し、全ての札所の由緒や文化財などについて調査した労作が本書である。

二 埼玉の古寺をたずねて

 筆者は、足摺岬周辺の遍路道を歩いた原体験と新史料の発見から本書を著した。根拠となった新史料は、法恩寺山主らが刊行した『印施新四国遍路御詠歌』であり、一部写真も掲載されている。例えば「第壱番 阿州霊山寺写 越生 法恩寺 六丁/霊山のしやかのミまへにめぐりきて よろつのつミもきへうせにけり」とあり、札所番号 本四国霊場名 住所 写霊場名 次の札所までの距離 本四国霊場の御詠歌が記される。正しく「写した」ことが強調され、御詠歌が本四国の象徴であったことを知ることができ、本四国の研究にも参考になる。
 まず、本書に沿って、「武州八十八霊場」を歩いてみよう。この霊場開設に関わった第一番札所法恩寺(埼玉県越生町)から、第八十八番聖天院(同県日高市)まで、写真入りで霊場が紹介されている。交通アクセスや位置図も記されるので、本書を片手に埼玉の古寺を訪ねることができる。各札所に存在する堂宇や石造物、文化財だけでなく、関係のある資料集や研究書まで紹介されるので、地域史研究の手引きにもなる。
 第一番法恩寺は、行基を開山とし、源頼朝が再興したという。古代を起源とする古刹が多いのは本四国と同じであるが、中世の由緒も充実しているのは当地の特徴である。第五番宝福寺には、康永三年(一三四四)・延文三年(一三五八)などの板碑がある。他にも中世の板碑が多数存在するのも関東らしい。第八番南蔵寺は、明治維新で廃寺になったため存在せず、川角八幡神社の境内に遺物があるという。本四国では、明治維新の新仏分離によって、札所であった神社から近隣寺院に札所が移され、最大の危機を迎える。当地では維新以前に「幻の霊場」となったとされるが、廃寺の時期は不明としても、その痕跡を追う調査は困難であっただろう。
 第九番山本坊も、関係した熊野神社(現在は国津神神社)に跡が残る。山本坊は本山派修験で武蔵・常陸・越後三国を支配する大先達であったという。本四国の新研究では、その成立に修験道や熊野信仰の存在が注目されており、当地でも山本坊などの役割は重要と思われ、伝来する「武蔵越生山本坊文書」は興味深い。第十七番慈眼坊も本山修験の寺であり、現在は多武峰神社になっている。ここには町指定文化財の板碑群三十一基があり、その覆屋に「武州新四国八十八ヵ所霊場」の全札所の板書がかかり、霊場の存在を伝えている。第二十一番医光寺跡のように墓石によってその痕跡が認められるようなところもある。第三十一番正法寺には、寺内にも写し霊場があるようである。第五十九番東光寺は、平安時代の里人の開基と伝える珍しい由緒を持ち、武州新四国の結合論理は何であったか気になるところである。第八十番円照寺には国指定重要文化財の鎌倉時代板碑があり、研究書も存在する。一方で、本四国霊場では必須の大師堂が紹介されていないことが気になる。
 以上、評者なりに本書を散策してみたが、新四国はもとより本四国にも関わる興味深い歴史研究の素材を見ることができた。

三 新四国霊場は禁止されたのか―幻の理由

 武州八十八霊場の最大の特徴は、幕府法令によって廃止されたことである。筆者は、「禁圧政策により、全国に千か所を越えて開かれた新四国八十八霊場は衰退することになったのである」と述べるが、評者はこのような事例を他に知らない。その根拠とする弘化三年四月十五日付御触(6)を確認してみよう。
 まず「関東筋村々」とあるので、関八州が対象であり、全国に出されたものではないこと。前提となった関東の社会情勢は、①新四国と唱えて寺社地へ「小堂」(大師堂)を建立していること、②巡拝と唱えて多人数で横行、③接待と申して酒食をしていることである。小堂建築は以前から禁止していることであり、「向後仏事参詣ニ事寄、無謂遊興ヶ間敷義無之様、村役人共精々心付可申候」と、巡礼を禁止したのではなく、それに伴う驕奢と無秩序を戒めた倹約令であったことが判明する。弘化三年という時期を考えると、それ以前における関八州の治安悪化と取締の流れの中に同法を位置づける必要がある。
 現在の四国遍路(本四国)では、本堂と大師堂を参拝することがその巡礼形態の特徴になっているが、大師堂が整備されるのは江戸時代中期から明治時代(十八世紀末~十九世紀)にかけてである。武州で大師堂が少ないとすれば、この法令の影響とも言える。また、金品や労働までも提供する「お接待」は、弘法大師とみなす「お遍路さん」に捧げるものであり、「お接待」に酒はなく、巡礼者も「修行」の意識が残り、結願するまでは飲酒していない(7)。江戸時代の関東と四国では、大きな違いがあったのである。
 こう考えてみると、武州八十八霊場が幻となったのは、弘化三年の幕令ではなく、他の理由があるのではないか。前章で紹介した霊場の由緒からも、また本四国の状況からも、明治維新が大きな画期となっていることを想像せざるをえない。

四 研究の前進のために

 江戸時代初期までに成立した四国八十八箇所霊場の起源は、今もなお謎である。一方で、江戸時代中後期に開設された新四国霊場の由緒は明らかであることが多いが、研究は進んでいない。現在はない「幻の武州八十八霊場」を紹介した本書の意義は大きい。関東の特質や幻となった真実解明は、四国遍路の研究にとっても大きな課題である。村役人の日記などに霊場の記録が出てこないか。武州の史料に詳しく、関東近世地域社会研究をリードしてきた筆者への期待は大きい。


(1)頼富本宏『四国遍路とはなにか』角川選書、二〇〇九年。愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター編『四国遍路の世界』ちくま新書、二〇二〇年。
(2)近年の研究には、山本準「四国八十八か所写し霊場―徳島県内の事例を中心として―」(鳴門教育大学『四国遍路』、二〇〇三年)、柴谷宗淑「写し霊場と新規霊場開設の実態について」(『宗教文化』二二一、二〇〇八年)、門田岳久「四国遍路の後背地:<周辺>から見る大師信仰と巡礼ツーリズム」(『四国遍路と世界の巡礼』三、二〇一八年)、田井静明「小豆島霊場と香川の写し霊場」(『四国遍路と世界の巡礼』四、二〇一九年)、山口由等「知多半島の巡礼文化と知多四国霊場」(同前)などがある。なお小豆島霊場は、写し霊場ではなく、本四国とは別の「元四国」と唱えており、貞享四年開設というが、史料はない。
(3)中川未来「植民地台湾の四国八十八ヶ所写し霊場」(『四国遍路と世界の巡礼』一、二〇一六年)。
(4)評者は、本四国でも、この時期に遍路者が増えることを紹介した(『四国霊場第五十二番札太山寺総合調査報告書(1)』愛媛大学法文学部日本史研究室、二〇一五年)。また、浅川泰宏氏は、本四国の聖年モニュメントが天保五年に始まることを指摘している(「四国霊場の聖年モニュメント―御遠忌、御誕生、そして四国霊場開創の「記憶」」『四国遍路と世界の巡礼』二、二〇一七年)。
(5)本書の「はじめに」と「資料編」では、幕府法令の年次が異なるが、出典は、弘化三年四月十五日付御触(『幕末御触書集成』第二巻二六一~二六二頁)が正しい。
(6)註(5)同。
(7)註(1)同。
(二〇一八年二月刊、A5変版、二二七頁、二〇〇〇円+税、さきたま出版会)

*『関東近世史研究』第87号(2021年2月1日)より、許可を得て転載。