中国・台湾の巡礼について

2016.07.21 研究最前線

四国遍路・世界の巡礼研究センター員
高橋弘臣(法文学部教授)

はじめに

 中国では、巡礼は進香・行遊等とも表記され、古来よりいわゆる五嶽(泰山・衡山・嵩山・華山・恒山)や仏教の四大聖地(普陀山・五臺山・峨眉山・九華山)への巡礼が行われていた。本稿では中国の巡礼について、歴史をさかのぼって通観するとともに、台湾の巡礼にも言及してみたい。また中国・台湾の巡礼と四国遍路との比較も試みることとする。

一 中国の巡礼

1 前近代の巡礼
 中国史上において、巡礼が史料的に確認できるのは唐代(618~907)後半以降であり、僧侶や道士が五嶽や四大聖地を巡礼した時の記録が、いわゆる敦煌文書等に残っている。宋代(960~1279)に入ると、普通庵・接待庵・施水庵等と呼ばれる、巡礼僧のための宿泊施設が巡礼ルートに沿って次々と設置されるようになり、また巡礼僧を統制するための詳細な法規が国家によって設けられた。
 なお巡礼僧について付言すれば、唐~北宋時代(960~1127)にかけて、円仁・寂照・成尋・然等の日本僧侶が五臺山や天台山へ盛んに巡礼に赴いている。彼らは『入唐求法巡礼行記』・『参天台五臺山記』等の詳細な日記を残しており、これらの日記には仏教史はもとより、交通史・社会経済史・外交史等に関する貴重な記事が数多く含まれているため、多方面から研究が進められている。
 宋代には、庶民(具体的には農民や都市に在住する商工業者等)も五嶽や四大聖地等へ巡礼に赴くようになった。しかし当時の史料は大変少なく、その実態はほとんど明らかにならない。明代(1368~1644)後半以降になると、庶民の巡礼はますます盛んに行われ、この頃からその様子が知識人の随筆や地方志・小説・寺廟志等に記されるようになる。もっともこうした資料の数は、同時代の日本と比べるとはるかに少ない(日本では、例えば江戸時代に農民が四国遍路に赴いた際、詳細な旅日記を残している)。本稿では庶民による巡礼として、杭州上天竺寺の観音像、泰山の碧霞元君に対する巡礼(進香)について紹介したい。

(1)天竺進香
 杭州の上天竺寺は五代十国時代(907~979)に創建され、その観音像は祈雨・祈晴の他、子授け・無病息災・科挙合格等に霊験あらたかであるといわれ、南宋の時代(1127~1279)には皇帝や官僚までも参拝に訪れたり、観音像を宮中に迎え入れたりしている。観音像をお迎えする行為を迎請という。
 庶民で天竺進香に訪れたのは、主として長江デルタの一帯で養蚕に従事する農民であり、時期は養蚕の作業のない正月~5月の初旬までであった。進香の目的は、豊作祈願等の現世利益を観音像に求める点にあった。農民はそろいの頭陀袋や腰紐等を身につけ、船をチャーターし、団体で杭州へやって来ると、宿屋・僧坊等に宿泊した。貧しい者の中には、乗ってきた船にそのまま宿泊する者もあった。こうした団体は社・会等と呼ばれ、進香のため成員から資金を徴収して積み立てる、講のような側面を持っていた。
 農民は杭州に来ると、上天竺寺だけでなく、中・下天竺寺や霊隠寺・岳廟・浄慈寺・城隍廟等、周辺の寺廟をくまなく参拝して回り、寺廟を参拝する際にはろうそく・のぼり・傘・香等を奉納した。また農民は寺廟以外に、杭州の史跡や名勝等もくまなく訪れた。杭州には進香の農民を対象とした市(マーケット=香市)も設けられ、臨時の売店が立ち並び、彼らはそこで多額の買い物をする等、天竺進香にはレジャー的な側面もあった。進香に来る農民の「爆買い」により、杭州だけでなく、近隣の農村まで経済的に潤ったという。

(2)泰山進香
 山東の泰山には古来東嶽大帝という神が祀られていたが、宋代に碧霞元君という女性の神様の廟が建設されると、子授け・育児の他、眼病・皮膚病の治癒に霊験があるとされ、明代になると多くの人々が進香に訪れるようになり、明末にはその数は年間80万人にも及ぶことがあった。
 進香に訪れたのは主として農民であるが、都市在住者もかなり含まれていた。彼らは山東地方を中心として、長江以北の広い地域から、社・会と称される団体を組織してやって来た。こうした団体の規模は、大きいものでは100人を超えることもあったが、多くは30人未満であり、女性(妻・妾)も参加していた。中には女性のみとおぼしき団体の存在もうかがえる。また社・会には世話人(四国遍路の先達に相当)である会首・社主の他、収頭(会計係り)等の役職があったことが知られる。社・会に参加しない者は家族で進香に赴き、個人で進香に赴くことは極めて稀であった。なお社・会は成員から資金を集めて積み立て、進香の資金としており、天竺進香の社・会と同様の、講のような性格を持っていた。
 泰山進香が行われたのは主として正月~4月の農閑期であるが、収穫を終えた9月にも泰山近隣の農民の中には進香に訪れる者があつた。進香に赴く農民の団体は三角旗を持ち、地元の碧霞元君を祀る廟に参拝し、碧霞元君の像を載せた輿を担ぎ、徒歩で銅鑼等を鳴らしながら進んだ。途中碧霞元君を祀る廟があれば、その都度参拝した。
 農民は泰山の麓の街である泰安に到着すると、宿屋に宿泊し、香税(入山料)を支払ってから登山し、碧霞元君の廟に参拝した。その際、銀でつくられた子どもの人形や金銀・絹等の財貨等を奉納した。因みに香税を徴収したのは宦官であり、香税の額は年間20万~30万両に及んだという。農民が下山すると、同じ宿屋で宴会を開き、地元に戻ってからは行きと同じ碧霞元君を祀る地元の廟に参拝し、帰還の報告を行った。
 なお泰山進香はしばしば2、3年連続で行われ、途中でやめると不利益があると信じられていた。泰山以外の聖地、例えば武当山に対する進香も数年連続で複数回行われていた形跡がある。

2 近代以降の巡礼
 このような巡礼は、アヘン戦争(1840~42)以後の動乱(太平天国の乱・義和団事変・軍閥の内戦・抗日戦争等)によって一時的に衰退し、中断することもあり、中華人民共和国成立後も文化大革命によって中断されたが、文革終結後復活し、現在に至るも盛んに行われている。現代の巡礼について見ると、例えば天竺進香の場合、交通手段が発達したため、はるか山東省からバスを連ねたツアーが行われるようになっている。泰山進香では、個人で進香に赴く者も増えており、福建や台湾から遠路進香にやって来る者も存在する。

二 台湾における巡礼

 福建や台湾では、漁業・航海の守護神である媽祖(女性神)が信仰を集めている。媽祖信仰は10世紀に福建地方で成立したといわれ、その後中国人の海洋進出に伴い、アジアはもとよりアメリカ・ヨーロッパ・アフリカにまで信仰圏が拡大している。
 現在、台湾では各地の媽祖廟において、多彩な巡礼が行われている。台湾の媽祖廟は、主要な廟(祖廟)が周辺の小規模な廟(子廟)を従えるという構造になっており、例えば信者が子廟の媽祖像を掲げ、祖廟に巡礼にやって来る、祖廟の媽祖像が信者によって駕籠に乗せられ、信者とともに子廟を巡回する、等の巡礼が行われる。
 中でも台中の大甲鎮瀾宮という祖廟の媽祖像の巡礼は、媽祖が生誕した旧暦3月23日前後に、8泊9日をかけて、100万人の信者とともに約120の子廟を巡る大規模なもので、国民的行事となっている。近年では政界やメディアが運営に関与しており、巡礼の様子はテレビで実況中継されたり、動画がインターネットで配信されたりしているという。なお巡礼の目的は、子廟の媽祖像が祖廟に参詣する、或いは祖廟の媽祖像が子廟を訪れることにより、祖廟の媽祖像の神性を再賦活する点にある。

三 四国遍路との比較

 中国・台湾の巡礼と四国遍路との比較についても、以下に略述してみたい。
①四国遍路は回遊型であるのに対し、中国の巡礼(天竺進香・泰山進香)は特定の聖地を訪れて帰ってくる往復型といえる。なお媽祖巡礼には回遊型も見られる(祖廟の媽祖像と信者が子廟を巡回する)。ただし天竺進香では、信者は上天竺寺以外の杭州の寺廟を巡礼に回っており、泰山進香においても、信者は泰山に赴く途中の碧霞元君の廟に参詣している。往復型といっても、回遊型の要素も看取されるのではないかと考えられる。
②中国・台湾の巡礼は、いずれも時期が定まっている(農閑期・媽祖の誕生日前後)。一方現在の四国遍路では、巡礼の時期は特に定まっていない(江戸時代は春と秋に集中していたといわれる)。
③現在の四国遍路では、巡礼者は定められた白衣を身にまとっている。中国・台湾の巡礼では、例えば天竺進香の場合、皆が萌黄色の服を着、「天竺進香」・「朝山進香」等と書かれた赤い前掛けをし、そろいの頭陀袋を下げ、腰紐を結んでいたとの記録がある。頭陀袋を下げるのは四国遍路と同じである。なお天竺進香では頭陀袋に参拝した寺廟の印を押すが、四国遍路では納経帳に参拝した寺院の御朱印を押す。
④四国遍路では多元的な御利益(病気平癒等の現世利益の他に死者の追善供養、自分の冥福等)を求めるのに対し、中国の巡礼はもっぱら現世利益(豊作・科挙合格・病気平癒・子授け等)を求める。
⑤四国遍路・中国の巡礼ともに、当初は僧侶・道士が巡礼を行っていたが、途中から庶民も参加するようになっている。
⑥四国遍路では巡礼者が各寺院で納札を納めるが、中国の巡礼でもろうそくやのぼり・傘・人形等を寺廟に納めるといったことが行われる。媽祖巡礼では逆に巡礼者が子廟で平安符というお札を受け取る。
⑦台湾の媽祖巡礼では、巡礼のルート沿いに住む人々が、巡礼者に食事等を提供するという、遍路のお接待のようなことが行われている。
⑧四国遍路・中国の巡礼ともに団体を結成して行うことが多い。また団体の成員から資金を集め、積み立てて巡礼の資金とすることが行われている。なお近年、中国では個人による巡礼も盛んに行われるようになっており、この点も四国遍路と似ている。
⑨中国の進香には2、3年連続で行われるものがあるが、遍路は1人で生涯に複数回行うことはあっても、数年間連続で行うということは少ないと見られる。

おわりに

 中国の巡礼に関しては、まとまった史料が少ないこともあり、総じて研究の蓄積は乏しく、不明な点が多く残されている。今回紹介した天竺進香・泰山進香も、ようやくその輪郭が明らかになった段階であると云って過言ではない。また衡山・嵩山・華山・恒山や四大聖地に対する巡礼に関しても、検討を深める余地が多く残されているし、巡礼相互の、もしくは四国遍路との本格的な比較研究もこれからの課題である。新たな史料の発掘につとめながら、今後一層研究を進めていく必要がある。

〈主要参考文献〉
・石川重雄「宋代上天竺寺に関する一考察」(『社会文化史学』21、1985年)
・同  上「宋代祭祀社会と観音信仰―「迎請」をめぐって―」(『柳田節子先生古稀記念 中国の伝統社会と家族』、汲古書院、1983年)
・同  上「宋元時代の接待・施水庵の展開―僧侶の遊行と民衆強化活動―」(『宋代の知識人―思想・制度・地域社会―』、汲古書院、1993年)
・同  上「伝統中国の巡礼と天竺進香―宋代より現代に至る杭州・上天竺寺観音信仰―」(愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会編『巡礼の歴史と現在―四国遍路と世界の巡礼―』、岩田書院、2013年)
・石野一晴「17世紀における泰山巡礼と香社・香会―霊巌寺大雄宝殿に残る題記をめぐって―」(『東方学報』京都86、2011年)
・鈴木智夫「明清時代江浙農民の杭州進香について」(『史境』13、1986年)
・矢澤知行「中国・台湾の媽祖巡礼―その成立・展開・現状について―」(『2014年度四国遍路と世界の巡礼 公開講演会・研究集会プロシーディングズ』、愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会、2015年)
・葉濤『泰山香社研究』(上海古籍出版社、2009年)