四国遍路をめぐる最新の研究から
四国遍路・世界の巡礼研究センター 副センター長
胡(えべす) 光(法文学部教授)
四国遍路・世界の巡礼研究センターの誕生
平成27年(2015)1月9日、ニューヨーク・タイムズ紙ホームページで、今年訪れるべき世界の52ヶ所が発表され、日本で唯一「四国」が選ばれ、「四国遍路の場所」として紹介された。写真は第45番札所岩屋寺(久万高原町)が掲載されている。4月24日には、文化庁が「日本遺産」に「四国遍路」など18件を初めて認定し、多くのマスコミはまず「四国遍路」を紹介した。来年には、「四国霊場八十八箇所と遍路道」を世界遺産登録候補となるように、四国4県が文化庁に提案する。昨年、四国霊場開創1200年事業が四国4県で華々しく行われたが、年が明けてからも四国遍路への注目度は益々高まっていると言えよう。
このような時期に、法文学部附属四国遍路・世界の巡礼研究センターが創設された。センターには、国内研究部門(歴史文化研究班・現代社会研究班)と国際研究部門が設けられ、学部内外から歴史学・文学・社会学・哲学・法律学・経済学・観光学など多様な分野の教員が25名所属して、四国遍路の歴史や現代社会における遍路の実態を解明し、世界の巡礼との国際比較を行っている。
ここでの研究・教育活動は、①四国の文化を世界に発信、②次世代への伝統文化継承、③四国遍路の世界遺産化を推進するものである。
四国遍路を世界遺産に
四国遍路を世界遺産にという運動は経済界から始まった。平成4年(1992)の世界遺産条約批准後、毎年2件ずつ日本で世界文化遺産が登録されていった頃、四国においては、昭和63年(1998)の瀬戸大橋、平成10・11年(1998-99)の明石大橋・しまなみ海道開通の時期を二つのピークとして、観光客入込数が減少してきており、観光資源の再開発が必要となっていた。三架橋とともに整備された高速道路も、平成12年(2000)には4県都を結ぶXハイウェイが完成し、四国遍路を含む観光客の利用が期待された。各界から「四国はひとつ」の言が相次ぎ、国土審議会特別委員の月尾嘉夫東京大学教授(システム工学)から「四国八十八箇所を世界遺産に」と言う発言があったのもこの時である。その後、平成の自治体大合併と道州制導入政策ともリンクしながら、世界遺産化運動が展開する。
平成12年夏、経済界は4県知事へ「四国の遍路文化を世界の人々に―四国遍路文化情報発信の提言―」を提出し、以後も提言を続ける。同じ頃、法文学部に「四国遍路と世界の巡礼」研究会が誕生した。以来毎年シンポジウムの開催と報告書を刊行し、四国の地域史研究を進展させるとともに、これまで行われていなかった世界の巡礼との比較研究によって四国遍路の世界史的意義を明らかにしてきた。四国遍路の研究は、戦前から行われてきたが、平成12年以降飛躍的に進展する。
そして4県合同で、平成18・19年(2006-7)「四国八十八箇所霊場と遍路道」を世界遺産暫定一覧表に掲載するよう文化庁へ提案を行う。結果、将来記載の候補となり得る可能性はあるが、国内外の同種遺産との比較研究を行うこと、保護措置を着実に進めること、体制の整備・充実に努めることという課題が与えられた。これを受けて平成22年(2010)、関係自治体、国分部局、大学、経済団体、ボランティア団体、及び霊場会で構成する『四国八十八箇所霊場と遍路道』世界遺産登録推進協議会が設立され、現在では産官学オール四国体制で登録推進に取り組んでいる。
センターでの研究は、世界遺産化のための条件とされる「資産の文化財指定」と「普遍的価値の証明」にも直結する。ここでは、筆者自身の研究視覚を示してみよう。
四国遍路は「遍路する人々」「遍路や霊場を支える地域」「霊場」の三要素で構成されていると考える。これまでの研究では、遍路日記や案内書を用いた「人々」に関わる研究が主体であって、「霊場」に係る研究はほとんど進んでおらず、成立期の「霊場」には、寺院だけでなく、神社も含まれていたことさえ、充分認識されていない。四国遍路の研究で最大の課題は、いつ、誰によって、八十八箇所が形成されるのかということである。そこで筆者は、県や博物館等と連携しながら、札所寺院所有の未公開の資料を総合的に調査・整理し、その全容を解明することによって、四国霊場(札所)の成立と発展過程を明らかにしたいと考えている。
札所寺院全体の調査は、これまで国が明治30年代と昭和40年前後の二度に亘り行ったが、短期間で名品のみの調査であったこと、当時は研究対象ではなく信仰対象であるとして拒否した寺院もあったことにより、札所には未見の資料が大量に眠っている。今日では、札所で構成する霊場会が世界遺産化推進に加わり、さらに四国霊場開創1200年事業によって調査への協力体制が整った。
近年の代表的な研究成果として、第45番札所岩屋寺(久万高原町)での「こけら経」(木片に書かれた写経)発見が挙げられる。寺内浩教授(四国遍路・世界の巡礼研究センター長)を中心に分析中の1万点を超える「こけら経」は、愛媛県では唯一、全国でも有数のもので、八十八ヶ所成立の謎にも迫れる貴重な文化財的価値を持つと考えており、『愛媛新聞』でも紹介され、愛媛大学ミュージアムや地元久万高原町でも展示公開をした。
筆者が中心になって行った調査成果も、NHKや愛媛新聞などで採り上げられた。その一部を以下に紹介してみたい。
四国霊場開創1200年の真実
平成26年(2014)は四国霊場開創1200年として、数多の記念行事が実施された。弘法大師開創とされるのは、弘仁6年(815)の平安時代初期のこと。残念ながら同時代の史料には、この年の開創記録はない。ただし、若き空海が行った厳しい山林修行を始源とするような、「辺地修行」の場が平安時代の四国にあったことは確認できる。弘仁6年の重要性は、大師42歳の厄除けに遍路を行い、翌年に高野山を拝領するという史実も混ざった伝承にある。
開創伝承の学術的検証は無かったが、42歳を厄年とする習俗は江戸時代に生まれるが定着していないこと、霊場会創設のなかで、大正3年(1914)に1100年事業を行ったことを伝承の起源とする研究が愛媛県歴史文化博物館の大本敬久氏によって出された。そこで、筆者が研究している霊場の史料から開創伝承を再考してみたい。
第65番札所三角寺(四国中央市)の本尊十一面観音像と奥之院仙龍寺の本尊弘法大師像は、弘仁6年の大師自作とされ、開運厄除観音・大師として信仰されている。しかし、江戸時代前期、澄禅「四国辺路日記」には、大師が18歳の時に奥之院で自像を彫ったと記され、後の真念による案内記『四国辺路道指南』では、奥之院の自像彫塑に加えて札所本尊も大師御作とされた。
第52番札所太山寺(松山市)には、縁起が5つも伝来する。室町時代成立の縁起には、弘法大師が登場しないが、江戸時代前期に、大師の開山と八十八ヶ所の記述が現われ、中期には、大師聖跡が紹介される。弘法大師信仰の拡大は、四国遍路の隆盛とも一致する。
結願の霊場・第88番札所大窪寺(香川県さぬき市)にも2種の縁起がある。幕末の縁起は、行基菩薩が開基、弘仁年間に42歳の弘法大師が再興し、八十八ヶ所霊場の88番札所にしたとする。四国霊場を42歳の大師が開創したという伝承は、幕末までに誕生していた。
62歳で空海が没した後、86年たって醍醐天皇から弘法大師の尊称が贈られ、大師は高野山奥之院において永遠の冥想を続けるのである。人間空海の史実だけでなく、後世に展開する弘法大師信仰の中での宗教的な大いなる大師の真実もまた、四国遍路の歴史となった。
太山寺と伊予の霊場
四国霊場第52番札所瀧雲山護持院太山寺は、松山平野北部の山間に位置し、堀江湾を臨み、奥之院からは瀬戸内海を一望できる。鎌倉時代末に建立された本堂は国宝、仁王門と本尊十一面観音立像は重要文化財である。四国最古の弘法大師画像や梵鐘は愛媛県指定文化財、最古の四国遍路札挟みは松山市指定文化財となるなど、四国遍路の歴史を考えるうえで重要な霊場であることは論を俟たない。さらに、当寺の創建は、用明天皇2年(587)豊後国の真野長者が海難を逃れた礼に一夜建立したと伝えられる。四国霊場の開基は、行基菩薩か弘法大師とされることが多いなか、唯一の事例である。
愛媛大学と愛媛県美術館は、当寺の総合調査を合同で行い、その成果を昨秋、美術館の特別展で公開した。当寺の御協力によって、諸堂全ての彫刻・絵画・工芸品・聖教・古文書類の調査を行い、その調査資料数は1万7000点に及んだ。その調査成果から、太山寺と伊予の霊場の特色や四国遍路の歴史を紹介してみよう。
太山寺本堂には、後冷泉院・後三条院・堀河院・鳥羽院・崇徳院・近衛院・後白河院が奉納したという平安時代後期制作の十一面観音立像が7躯も安置され、全て重要文化財に指定されている。今次調査では、これらと同時期に制作されたと見られる5躯の如来像や不動明王像、神像が確認された。これほどの平安仏教遺物が残っている例はなく、伊予国内外からの信仰を集める当寺の特殊性を示している。
太山寺文書からは、河野家をはじめ、加藤・蒲生・松平家という歴代領主家の厚い保護を受けたことがうかがえる。さらに、5種の古縁起が発見された。室町時代成立の縁起には、室町聖武天皇の勅願による行基菩薩の開基が謳われていた。江戸時代前期の縁起には、弘法大師開山と八十八ヶ所の記述が見え、中期の縁起には海運の発達と四国遍路の隆盛によって、豊後(大分県)から真野長者伝説が伝わってくる。これによって後期の縁起は、当寺の開基を用明天皇代の真野長者とし、行基菩薩は本尊由緒に特化された。その背景には、九州での弘法大師と四国遍路信仰の拡大があった。西方からの四国遍路の玄関口として、太山寺と高浜・三津浜が知られていたのである。
松山藩からの通達も残っていた。真野長者伝説が伝わったのと同じ頃、松山藩では三津浜に制限していた上陸を太山寺近くの高浜も許可する。西方からの四国遍路増加状況が分かる。上陸した遍路が目指したのは太山寺であった。
太山寺境内には他寺とは比べ物にならない圧倒されるほどの遍路の落書きが残されている。江戸時代後期から明治時代の年記と九州・中国地方の地名が多いこれらの墨書からは、西方からの遍路が最初もしくは最後に参詣した当寺において安堵などの気持ちを綴った遍路の姿が思い浮ぶ。指定文化財の梵鐘にも、永徳3年(1383)豊後丹生の大工名が刻まれる。前述の平安仏像も、都との関係だけでなく、特徴的な平安仏教文化を伝える豊後との関係をもっと調べてみる必要がある。
四国遍路を発展させた真念『四国辺路道指南』や細田周英『四国徧礼絵図』をはじめ江戸時代の案内本の多くは、畿内目線で書かれ、畿内で刊行された。このため、四国遍路の研究も東方からの遍路に偏ったものになっている。太山寺の例ばかりでなく、大分から八幡浜に上陸した高群逸杖の『娘巡礼記』や第41番札所龍光寺参詣道に残る豊州人の元禄鳥居など九州との関わりは伊予の霊場の特色である。太山寺の真野長者伝説は、その象徴と言える。西方の遍路を迎える伊予霊場の研究は、遍路研究にも新たな視点を提供するだろう。
【参考文献】
香川県立ミュージアム『空海の足音 四国へんろ展 香川編』2014
愛媛県美術館『空海の足音 四国へんろ展 愛媛編』2014
愛媛県歴史文化博物館『弘法大師空海展』2014
愛媛県生涯学習センター『遍路のこころ』2003
《『愛媛大学法文学部同窓会報』19号、2015年9月より転載、一部改編》